個別指導がその本来の力を発揮できるかどうかは、その指導者が、一人ひとりの生徒の学力と目標に合った学習計画を作ることができるかどうかにかかっています。
学院長の佐伯健太郎は、全国塾の教務部責任者、教材制作者、指導法研究者等の豊富な経験を持ち、学習塾指導者たちの指導を行ってきました。
30代前半の若さで個別指導塾の先駆者である明光義塾の教務部責任者への抜擢を受け、個別指導の形態を全国の学習塾に広めたのもその業績の一つにあげることができます。公文公教育研究所では研究員として、生徒の立場からの学習法・指導者の立場からの指導法の双方向からの研究を行い、最終的に、効果の高い学習指導を行うためには、フランチャイズ形式の全国展開の塾ではなく、自ら指導の現場に立つ他はないとの結論に達し、 新所沢の地に自らの教室を構えるに至りました。
学院長: 佐伯健太郎 (2015年度:信州大学人文学部特別講師、ニッケンアカデミー映像授業講
師)
略歴: ペンシルバニア州立インディアナ大学
英語学部大学院 英語教授法修士 (TESOL MA)
ウィーン大学 哲学部 および フライブルク大学 哲学部
ニーチェ、ハイデガーを研究
信州大学人文学部 人文学科 卒業
公文公教育研究所 研究員
公文教育研究会 教材開発部
明光義塾教務部責任者等を経て
現在に至る
著書・編著 「知ってると得をする勉強の仕方」(西北出版)
「講師600人に聞きました-私が使った参考書・問題集」(西北出版)
「白馬(しろうま)にて」(小説、西北出版)
ここで少し思いつくままに学院長の経験について書いてみたいと思います。
私が明光義塾本部の教務部責任者(部長不在の副部長)だったのは、若干32歳のときでした。あまりにも若かったので、部長の肩書はもらえず、副部長ということでした。今思えば、こんな若者をよく副部長にしてくれたものだと、驚きと感謝の気持ちと、恥ずかしさの混ざった気持ちで一杯です。しかし、何故この若さで私が抜擢を受けたのでしょうか?自分なりに考えてみたいと思います。
私の部下には、東大法学部、京大理学部、早大政経学部を出たような人たちがいました。全国塾の教務部ですから、こうした学歴の人たちがいるのは当然でしょう。もしかしたら、一つ一つの教科の能力に関しては、彼らのほうが勝っていたかもしれません。数学教材の解答を作成しているときにこんなことがありました。部下が作ってきた解答を見て、私が「どうしてここから次の式に移行できるの?ここにもう一段説明を入れて」と指示をすると京大理学部を出た彼は、「そんなことは説明しないでも当たり前じゃないですか」と答えました。なるほど、数学が抜群にできる人にとっては、そんなことは常識なのかもしれません。しかし、世の中の大半の人は京大理学部に入るほど数学が得意なわけではなく、それこそ懇切丁寧な解説があってやっと理解ができるのに違いありません。
私自身は、塾の指導者として恥ずかしいことながら、高校を卒業するまでほとんど勉強をしたことがなく、高校3年の秋の代ゼミの模試で、5教科の平均偏差値が32だったか33というところからスタートしました。当然浪人生活に突入し、一度私大の工学部に入ったものの中途退学してしまい、実質2浪した最後の代ゼミのテストでは5教科の偏差値が67まで上がり、センター試験(当時は共通一次)でも847点(1000点満点)をとり、佐賀大学医学部(当時は佐賀医科大学)も合格確実との判定がでましたが、どうしても哲学を勉強したいという思いを貫いて、信州大学の人文学部に首席で合格しました。
まったくの最底辺の受験生だった私が、まあけっこう上位の受験生に変わったというこの経験から、勉強ができない生徒がどのように勉強をしたら学力を着実に伸ばしていくことができるかということを体得したのだと思います。そして、おそらく、それを実現する方法論を周囲の人たちにもわかりやすく伝えることができたコミュニケーション能力が、驚くような若さで全国塾の教務部責任者に抜擢されるきっかけとなったのだと思います。
自分がまったく勉強が苦手であったからこそ、勉強で苦労をしている生徒の気持ちと、また、闇雲に努力するのではなく、具体的にどのように勉強をしたら学力を着実につけていくことができるのかという方法論が、手に取るようにわかるのに違いありません。
ソフィアでは、すべての生徒の学習状況を学院長である私自身が把握し、学習計画をたてています。それが個別指導の本来あるべき姿なのだと思います。