現在ワールドカップサッカーで活躍している堂安律の名前は、サッカー好きではない人でもご存じではないでしょうか?正直なところ、今回のワールドカップでドイツやスペインに勝てるとは、私はまったく思っていませんでした。
ところでその堂安は、2022年からドイツの一部リーグFCフライブルクでプレーをしています。左がそのホームの競技場です。そして、このフライブルクは、私が留学生活を過ごしていた街なんですね。
この競技場、なかなか立派だと思いませんか?しかし、私がフライブルク大学の哲学部に留学していた頃の競技場は、ろくな観客席もなく、高い塀もなくて外から中がのぞき込めるような、まるで大学のサッカーグランドに毛が生えたような代物でした。
実は、私がフライブルクの街にいたとき、FCフライブルクはまだ二部リーグに所属していたんですね。ところが、そのシーズンにどんどん勝ち進んで、信じられないことに目の前で一部リーグに昇格してしまったんです。当時のフライブルク市民の盛り上がりようは、特にサッカー好きでもない私にもひしひしと感じられたほどです。昇格したばかりのシーズンに、ホームでバイエルンミュンヒェンとの試合があったのですが、それに勝利した翌朝の街は、ビールの空き瓶や応援用の紙吹雪などが散乱していたものです。
堂安律のドイツ戦、スペイン戦での素晴らしい活躍を見て、フライブルクへの親しみが蘇ってきました。(Freiburgとは、自由の砦という意味です。)
最近急激に暑くなってきたので、TVのニュースで熱中症の話題が伝わって来ます。私もこれまでの人生で何度か熱中症になったことがあります。そのうちの一度は夏のローマでのことでした。
あれは確か1994年のことだったと思うのですが、ウィーン大学に留学していた年の夏、一人イタリア旅行へと出掛けました。夜行列車でローマに入いると連日の晴天と猛暑に見舞われました。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、コロッセオなどを見て回り、少し郊外にある、まだキリスト教が公認されていなかった時代のキリスト教徒の秘密のカタコンベ(地下埋葬場)を訪れて、かつてのローマ街道(すべての道はローマへと続くのローマ街道)の炎天下をローマに向かってフラフラと歩きました。
水分を十分とらなければいけないことはわかっていたのですが、私はあまり胃腸が丈夫ではないので、ガブガブやるとお腹を壊すと思い、控えめに水分補給をしていたんですね。それで、ローマ市内にある安ホテルに戻ってくると、夕方から調子が悪くなりました。
身体が熱っぽくて全身がだるく、気分が悪い。ベッドから起き上がるのも大変といった感じ。もしかしたらこれって熱中症(当時は熱射病と言いました)なのかなあと思い、喉はそれほど渇いていないのですが、2リットル入りのボトルから水を少しずつ飲んでいるうちに、ほとんど全部飲んでしまいました。それでも一向にトイレに行きたくならないのが不思議でした。
当時は若かったので翌朝には回復して、また観光をすることができましたが、今思い返すとけっこう重症だったような気がします。きっと現在の年齢では病院に担ぎ込まれるくらいだったかもしれません。
皆さんも炎天下の活動では水分補給を忘れないようにしてください。
ドイツのフライブルク大学に留学していたときの話です。学生向けの安アパートの向かいの部屋にエルマー・フランツという美術大学の学生が住んでいました。そして、その双子の妹のシルヴィアがその隣の部屋に住んでいたんですね。
ある日のこと、ドアがノックされて、身長が190cmくらいあるエルマーが、今日は僕らの誕生日だから、お茶を飲みにこないかと誘われました。すぐ向かいの部屋なので、そのままついていくとシルヴィアもいて、テーブルに二つのケーキが置いてありました。
紅茶を入れてくれて、歓談しながらケーキをご馳走になり、でもせっかく戴いたのだから、何か一言言わなければいけないと思い、二つのケーキのうち片方を指さして、「どちらも美味しいけれど、こっちの方が上かなあ」とコメントしたんですね。
そしたら一瞬その場の空気が凍り付き、エルマーが神妙な顔をして、「健太郎、お前は大きなミスを犯したね。シルヴィアが作ったケーキは向こうのやつだ」と教えてくれました。
うーん、これには参りましたね。一気に頭に血が上り、とても外国語ではその場をうまく切り抜ける話術もなくて、ただ笑って誤魔化すしかありませんでした。人生というのは勉強ですね。以後、料理を褒めるときには、まず相手がどれを作ったのかを確かめるようにしています。
今夜はサッカーのワールドカップ、ベルギー戦ですが、目下23連勝負けなしの強敵だけに、どうなることやら。
ところで、サッカーとは関係ありませんが、ベルギーの思い出を。
だいぶ前のことになりますが、ベルギーのアントワープに住む、ムートという当時20歳の女の子の家に何日か泊めてもらったことがあります。ご両親とお姉さんのソフィーの4人家族で、ちょっとハイソな仲睦まじい温かいご家庭でした。
で、現在ベルギーのことがTVで頻繁に取り上げられていて、ベルギーの公用語は、フランス語、オランダ語、ドイツ語と紹介されているのですが、この「オランダ語」という表現について一言。ムートが、アントワープはフラマン語圏だと言うので、フラマン語ってオランダ語でしょ?と聞き返したとき、きっぱりと「オランダ語とは違う、フラマン語はフラマン語よ」と言い返されました。
私はフラマン語もオランダ語も知らないので、なんとも判断できないのですが、聞き流している感じではほとんど似たように聞こえて、違いがあったとしても、東京弁と関西弁ほどの違いはないのじゃないかと思えるのですが、彼らのアイデンティティーとしては、フラマン語をオランダ語とは絶対に一緒にされたくないのだと思います。
このときの経験から、私が外国人から「あなたは何語がしゃべれるの?」と聞かれたときは、「日本語と、英語と、ドイツ語と、それに大阪語。あっ、大阪語はね、多くの人は日本語の方言だと言うけど、僕の考えでは日本語ではない。別の言語だと思う」と答えることにしています。半分冗談、半分本気です。
そうそう、それともう一つ「フランダースの犬」について。この小説の舞台は、ムートの住むアントワープなのですが、ムートもその家族も「フランダースの犬」なんて小説のことはまったく知りませんでした。初めはこの事実に驚いたのですが、後で小説のストーリーを考えてみると納得ができます。まず、この小説を書いたのはアントワープの人ではなく、イギリス人の作家です。そして、主人公の少年とパトラッシュを死に追いやったのは「意地悪なアントワープの商人や人々」なわけですから、この小説がアントワープやベルギーの人たちに読まれるわけはないですよね。
ベルギーで思い出したことを気ままに書いてみました。
アメリカとドイツ、二つの異なる国ですから、違っているのは当たり前と言えば当たり前ですが、日本とアメリカ、日本とドイツと比べれば、けっこう似ているところもあります。しかし、アメリカの大学の大学院に入学して早々、ある違いにガビーン!となったことがあります。
アメリカに留学する前、ドイツとオーストリアの大学に留学していたのですが、ドイツ語圏の大学では、教授が学生に「あなた(Sie)」という敬称で呼びかけるのが普通で、この場合にはファーストネームではなく、互いに名字で呼びあいます。英語で言うなら、Mr.とかMs.をつけるわけです。しかし、もし教授がこちらを「君(Du)」という親称で呼び掛け、名字ではなくて「健太郎」と名前の方で呼びかけた場合は、こちらも教授をDuで呼び、名前の方で呼びかけることになります。
まあ、ドイツやオーストリアの大学で教授から名前で呼びかけられたことはなかったのですが、アメリカの大学院に入学したら、なんと教授たちはみんな学生たちに「健太郎」と名前で呼び掛けてくるんですね。で、さすがはアメリカ、なんとフレンドリーな国かと思い、私もその気になって教授たちを、ジェリーとかナンシーと呼んでいました。
しかし、ですね、あるとき、学科主任の女性教授をリリアと呼んでいるのをアメリカ人の学生が聞きとがめて、「お前、教授をファーストネームで呼んでいるのか?」と聞いてきたんですね。「え、もしかして、それってまずいの?」と聞き返すと、「一般的にはそうだ。ナンシーとか若い教授はいいが、リリアはまずい」とのことでした。
それを聞いてからまわりの学生が教授たちをどう呼んでいるかに注意をしてみると、若いナンシーはともかく、ジェリーに対してジェリーと呼び掛けているのは私くらいなもので、他の学生たちはDr. Gebhard(ゲブハルト博士)と呼んでいることに気づきました。冷や汗ものですね。しかし、それまでジェリーと呼んでいたのを急にDr. Gebhardに変えるのも変ですし、私の場合は社会人になってからの留学で、それなりの年齢でもあったので、卒業までジェリーで通してしまいました。
ただね、一つ思い当たることがあります。私はジェリーの授業の成績で、一つAではなくてBを付けられたことがあるんですが、ある日本人留学生仲間に「私はゲブハルトの授業でBを付けられた日本人は健太郎さん以外に知らない」と言われたんですね。実はジェリーは日本人びいきで奥さんも日本人で、だから日本人には採点が甘いと言われていました。ちょっと生意気に思われたかもしれませんね。
もちろん、アメリカとドイツではいろいろなことが違うわけですが、意外なことが違っていたりすんですね。
ドイツやオーストリアの大学に留学していたとき、テストの際に使う筆記用具は、ボールペンとか万年筆で、鉛筆は×でした。消しゴムで消せるようなものはダメなんですね。これには苦労しました。だって、書き損じをしたら、消せないので、ボールペンで線を引いて訂正しなければなりません。あまりこれを繰り返すと答案が汚くなるし、書くことのできるスペースも減ってしまいます。
ところが、アメリカの大学に行ったら、日本と同じようにみんな鉛筆(実際にはシャープペンシルですが)で書いている。そのとき感じたのは、あれ、日本って、意外に細かいところでアメリカの影響を受けているのかなってことでした。
でもね、それとは別に日本とドイツが共通で、アメリカが違っていたことの一つは、トイレのドアが開いているか閉まっているか。どういうことかと言うと、日本やドイツでは、トイレのドアはいつも閉まっています。しかし、アメリカ(ペンシルヴァニア州)では、トイレを使っていないときはドアを開けておくんですね。で、教授のお宅にお邪魔したとき、トイレに入ってドアを閉めたものの、なぜか鍵がないんです。しかも広い家ですからトイレも広くて、ドアから便器までの距離が2メートルくらいある。自分でドアを抑えているわけにはいかないんです。もし、している間に誰かが来てドアを開けられたら… ずいぶん悩みました。しかし、アメリカではドアが閉まっているということは使用中を意味するから大丈夫だろう、と信じて使用しました。とっても緊張しましたよ。この教授の家以外でも、トイレに鍵がない家がありましたから、この家だけが例外というわけではなかったと思います。
健太郎先生は、ドイツとオーストリアの大学で哲学と文学を学んでいたんですが、ドイツのフライブルク大学にいたときのこと、私よりも少し年上のSさんという日本人留学生がいました。彼はドイツ観念論哲学のヘーゲルを研究していて、ちょっと変わった人でした。
何かというと議論を吹きかけてくるので、他の日本人留学生たちは、「Sさんは頭が固い」「頭が悪い」とクソミソに貶していたのですが、実に論理的に話をする人で、私は話していて、むしろ物わかりの良い人だと思っていたくらいです。
私はその後、オーストリアのウィーン大学のほうに転学して、留学を終え、日本に戻ってきました。1995年のことです。それから9年後の2004年の夏、フライブルク大学の外国人のためのドイツ語講習会に出る機会があって、再びかつて住んだ街を訪れることになりました。
上の写真は、私が留学していた当時の大学の休憩室なのですが、2004年に訪れたときには、改装されてモダンなカフェになっていました。
で、そのカフェで、講習会で知り合ったシルヴィアというイタリア人の学生と話をしていたとき、カフェの向こうの端に、どこかで見たことのある日本人の姿が目に入りました。「あれってもしかして、もしかして…」という感じなのですが、咄嗟に相手の名前が出てきません。「しかし、あれから10年近くも経つのに、まさかまだこの大学で研究を続けているなんてことがあるんだろうか?」私はあまりの驚きに無意識のうちに立ち上がったのですが、そのとき椅子に足を引っかけてよろめいてしまい、身体を支えるために、目の前にいたミニスカートのシルヴィアの膝に思わず手をついてしまったほど動揺していました。それでもシルヴィアに怒られなかったのは幸いです。
私がフラフラとSさんの方に近づいて行くと、相手も途中でこちらに気が付き、2メートルほどの間を置いて、お互いに相手を指差し、あぁ、あぁ、と言いながら、しばらく互いの名前が出てきませんでした。まったく驚くべき再会でした。
夜、街の日本料理屋で待ち合わせ、話を聞いたところでは、Sさんは未だに卒業せず、博士論文を書く準備を続けているとのこと。日本ではコンピュータープログラマーだったSさんは、こちらでもしばらくプログラミングの仕事をアルバイトにしていましたが、仕事が忙しくて哲学の研究ができないので、仕事を辞め、その代わりに週末だけ駅前のホテルに行って皿洗いの仕事をしてなんとか命を繋いでいるとのこと。皿は自動洗浄機が洗ってくれるけれど、ドイツの重い皿を洗浄機にセットし、取り出す作業だけで手の指が曲がってしまい、伸ばすことができなくなったと、その曲がった指を見せてくれました。
うーん、このとき私は心の底から唸りましたね。そこまでしてヘーゲルの研究を続ける情熱を失わないSさんは、「ほんまもんの哲学者」だと。実は、私は周囲の友人から「ええ加減な哲学者」と呼ばれているんです。この「ええ加減」というのは、「いい加減」という意味と「ちょうどいい加減」という二つの意味を含んでいます。関西で勤務していた頃についたあだ名なので、関西弁で「ええ加減」になったわけです。
そのええ加減な哲学者から見て、Sさんは「ほんまもんの哲学者」でした。多少変なところのあるSさんでしたが、彼を心の底から尊敬するようになりました。
本日は健太郎先生のアメリカ留学中の釣りのお話し。
アメリカの大学院(Indiana University of Pennsylvania)での学期の間は、ほんとうに勉強が忙しくてほとんど遊ぶ暇がありませんでした。毎日々々朝から晩というか夜中まで図書館に罐詰で勉強をしてたんですよ。そりゃあもうストレスが溜まりっぱなしで、週に3つか4つしかない授業(但し、1授業は2時間半)の最後が終わって街に一杯飲みに出かけるのがほとんど唯一の気晴らしでした。まあ、社会人になってからの留学でしたから、お酒はけっこう飲みましたね。
で、2年間で単位を取り終った5月、突然暇になりました。それまで勉強漬けでほとんど他のことは何もできなかったので、急に訪れた自由な時間にいったい何をすればいいのかわかりませんでした。で、思いついたのが釣りなんですね。旅行で行ったWorld's End State Park of Pennsylvaniaで泊まった小屋のすぐ脇が川だったので、County(郡)の役所まで行ってFishing Licenseをとり、土産物屋で15ドルくらいの竿とリールのセットを買って、日本では考えられないくらい大きな餌のミミズ(それでも「小」って書いてありましたけど)を針に引っかけて、目の前の川の流れに放り込みました。川に流して釣るんですが、「うき」がなかったので、代わりに枯枝を拾って使いました。
そこで釣れたのが、紙皿の上に2匹並んでいるやつです。釣ってから少し時間が経っているので色が少し変わってしまっていますが、上がRainbow Trout(ニジマス)、下がLake Troutと言われるイワナ系の魚です。ニジマスは35cmくらいあったかな。
その下のフライパンの上に載っているのはSmallmauth Bass(コクチバス)。44cmくらいありましたが、三枚に下ろしててんぷらになっちゃいました。白身の魚でけっこう美味しかったな。これは大学に近いYellow Creekという湖で釣ったんですが、健太郎先生が竿を持って写真に納まっているその場所です。
一番下の熱帯魚みたいのは、Dollar Sunfish。きれいでしょ。ずっと名前がわからなかったんですが、日本に帰ってきてから魚に詳しい人が調べてくれてわかりました。これもYellow Creekです。
アメリカで始めた釣りですが、その名残で今でもときどき釣りに行きます。
日本人の多くは、とっても難しい大学入試の英語を突破したにもかかわらず、英語で日常会話を交わすことができません。なぜか? 答えは簡単、日常的に会話で使うフレーズ(文)を覚えていないからです。
日常会話で使う英語の文法は、8割方が中学2年の教科書までの文法で間に合います。中3で出てくる関係代名詞なんて、普段の会話でわざわざ使うことはないですよね。
じゃあどうしたら日常会話ができるようになるのか? それは、日常会話で使うフレーズをいくつか暗記してしまえばいいんですね。最近TVやラジオでやたらと宣伝している英語学習教材も同じ理論に基づいたものです。空港での会話とか、レストランでの会話とか、いくつかシチュエーションを分けて、必要なフレーズを覚えるわけです。ただ、その教材はかなり高額なようなので、お金を節約したい人は、もっとうんと安価な方法があります。
それは、書店で売っている「旅の会話」みたいなやつを買ってきて、主要な表現を覚えてしまえばいいんですね。これなら1500円くらいで日常会話ができるようになります。
健太郎先生の知人で翻訳・通訳事務所を経営している人が言っていたのですが、覚えるべき主要な文の形式は、せいぜい100くらいで、後は単語を覚えればこのバリエーションでかなりいける、というのですが、この意見には健太郎先生も賛成です。
健太郎先生がドイツ語会話ができるようになったのは、「旅のドイツ語会話」の表現を1冊覚えてしまってからですし、そうしたらついでに英語の会話もできるようになっていました。みなさんも騙されたと思って実行してみてください。たった1500円で日常会話をマスターできますよ。
アメリカ留学中に困ったことの一つが、単位の違い。日本やヨーロッパでは、長さはメートル、温度は°C(摂氏)だけど、アメリカではフィート(フット)と°F(華氏)、そして液体の体積も、なじみの深いリットルやccに対して、アメリカではガロンやオンス。
アメリカで天気予報を見ていると、今日の最高気温は80度の予想です、なんて言ってるんですね。で、それを聞いている日本人の私は、え、80度って、暑いの?涼しいの?と一向にピンとこないわけです。80°Fというのは摂氏で言うと26.7°C。冬になると0°Cは32°F。
これを計算式で示すと、
1)°C→°F (9÷5)×°C+32
2)°F→°C (°F-32)×5÷9
でも、こんなのいちいち頭の中で計算してられないので、アメリカにいる間じゅう、気温はいつも肌で感じる実感で計っていました。
車を運転していても同じ。日本ではkm/h(キロメーター毎時)なのに、mil/h(マイル毎時)だから、いったい自分が何キロで走っているのかピンときません。
大雪が降ったある日のこと、いつも通っている道の大きなカーブを、ちょっとスピードオーバーで走ったらどうなるかな、と悪魔のような誘惑に駆られて、50マイルで突っ込んでみたんですね。そしたら思った通りスリップして車は制御を失ってスピンして、縁石にガツンとぶつかって止りました。で、50マイルって何キロかと言うと、50×1.6=80キロなんですね。まあ、雪道をノーマルタイヤで80キロで走れば当然そうなりますよね…
久しぶりの更新です。この間、通りを歩いていて道を聞かれたときに思い出したのですが、ドイツに留学中、よくドイツ人から道を尋ねられました。
それは住んでいたフライブルクの街だけでなく、旅行中などにもありました。まあ、旅行案内書を片手に道を歩いていれば、ああ、あの人地図を持っているからと尋ねられるのもわかる気がするのですが、ただ道を歩いている時に、日本人の私にドイツ人が道を尋ねてくる。なんで外国人の私に?ってとても不思議な思いでした。
理由として考えられるのは二つ。一つは、私が背が高くて目立つから。185cmあるので、たまたま目についた人間に話し掛け、それから、あ、この人、外国人だった、と気づくケース。もう一つは、ドイツはフランス、スイス、ベルギー、オランダ、チェコ、ポーランドなどと地続きのため、入ってくる外国人も多いので、外国人に対する抵抗がないこと。しかし、ヨーロッパ人ならともかく、なんで遠くから来たと思われる東洋人にわざわざ道を尋ねるのか…
留学初日のフライブルクの街のアパートで撮った写真です。
大学入学準備のための語学学校が用意してくれたアパートで、車でここに連れて来られて置き去りにされたのですが、アパートには日本人の留学生もいて、ホッとしました。しかし、夜になり、何とも心細い思いでした。
一番寂しかったのは、部屋があまりにも殺風景だったこと。6~7畳ほどの長方形の部屋に、安物のベッドと机、そして洗面台が一つだけ。なんとなく、ドイツの小説によく出てくるような屋根裏部屋のロマンチックな風景を想像していただけに、コンクリートで囲まれたリノリウムの冷たい部屋に放り込まれたときには、まるで牢屋にでも連れて来られたような気持がしたものです。
これは1992年の9月、ドイツに留学する際の成田空港での写真。見送りに来た友人が撮ってくれました。
あの頃は大韓航空がサービスが良い割にとても安かったので使いました。最初に覚えたハングルは「メクチュ、チュセヨ(ビールをください)」。その後イタリア旅行のときに最初に覚えたイタリア語は「ビルラ・ポルファボール(ビールをください)」。
この写真を見ると、期待と不安を胸にした成田のあのときのことを思い出します。あれから何十年かして振り替えると、あのときの、まだ前途に何が待っているかわからない新鮮な気持ちに戻れたらなあ、と思います。
夏が去り、秋の気配が深まる頃になると思い出すことがあります。健太郎先生がドイツに留学したのは1992年の9月末のことで、ここに掲げた写真は、留学先のフライブルクの街に着いた翌朝に、下宿(アパート)の中庭に面したドアを開けて写した写真です。10月1日のことでした。庭先にちらりと見える赤い花は、記憶が正しければ、薔薇でした。ドイツの人々は薔薇をこよなく愛し、庭や窓辺のプランターなどに薔薇を好んで植えます。
思っていたよりずっと殺風景な下宿の部屋に案内されて、心細い一夜を過ごした翌朝、ドアのブラインド開けると差し込んできた、どこか日本とは異なる淡さが漂う秋の光が、寂しさの中にもこれから始まる留学生活への喜びを送り届けてくれました。一生忘れられない朝の一つになりました。
本日はスコットランドの独立を問う投票が行われ、どちらが良かったのかはわかりませんが、一応独立は無しということになったようです。
今回10日ほど前から突然のようにニュースで話題になったこの問題で思い出すことがあります。もう20年以上も前のことになりますが、ドイツのフライブルク大学に留学していた頃、ボン大学の外国人向け夏期講習で、スコットランドから来たLynnという女子学生と知り合いになりました。とてもチャーミングな女の子で、講習の期間、他の留学生たちも交えて一緒にいることが多かったのですが、ある時「君はイギリス人(English)だから…」と言いかけたとき、即座に「私はEnglishじゃない、Scottishだ」と言い返されました。
Lynnによれば、Englandはロンドンを中心とする一つの地域に過ぎず、もし日本人のいわゆる英国と言いたければUK(United Kingdom)と言わなければいけないというのです。で、でも君が話している言葉はEnglishでしょと食い下がると、違う、Scottishという言葉が返ってきました。
これはちょっと衝撃的な出来事でした。ロシアや中国が多民族国家で、あわよくば地域が独立を狙っているということは感覚的にわかっていましたが、あの確固としたイギリスという国の中にこれほどイギリス人とは異なるアイデンティティを持った人たちがいるとは想像もしたことがありませんでした。
その夏期講習の後で、Lynnをスコットランドのグラスゴーの街に訪ねたのですが、ロンドンからグラスゴー行きのバスの隣に座ったおじさん(今では私もおじさんですが、その頃はまだ若かった)は、「私の言葉が理解できるかい?」と尋ねてきました。つまりScottishの彼にとってEnglishは外国語みたいなものなので、一生懸命私にわかるように話していたわけです。おじさんが驕ってくれた真夜中のコーヒーの味が忘れられません。
そして、グラスゴーに着いて、また一つ驚かされたことがあります。そこでは同じポンド紙幣でもスコットランドポンドというものが使われていたのです。後で知ったことですが、Englandのポンドはスコットランドでも普通に通用しますが、スコットランドポンドをロンドンに持って帰ると、店やタクシーで受け取りを嫌がられることがあるそうです。これはまるで日本の大阪で自分たちの紙幣を発行しているようなものでしょうか。
今回のスコットランドの独立問題で、ちょっと昔のことを懐かしく思い出しました。
今、NHKのBSの番組で、カンボジアのプノンペンの市場で肉の値段を値切る女性の姿を見ていたのですが、突然留学中の出来事を思い出しました。
ドイツのフライブルク大学の留学生仲間のシモーナに、夏の間、イタリアのアドリア海沿岸の観光地リッチオーネのホテルで住み込みのアルバイトをしているので、オーナーに安くするよう頼んであげるから遊びにおいで、と誘われたんですね。それで、どうやってリッチオーネまでたどり着いたのか今では思い出せないんですが、とにかくシモーナがバイトをするホテルを探し出し、3泊ほど格安料金で泊めてもらいました。確か、2つ星でしたが、留学中に私が泊まったホテルの中では最高級でした。シモーナのおかけで40%くらい割引してもらい、けっこう豪華なコース料理の夕食としかも朝食が付いて4500円くらいだったと思います。今から思えばかなり安い値段だったのですが、その頃、旅行中に私が泊まっていたホテルは素泊まりで1泊1500円くらいで、2000円だと高いといった感じでしたから、十分贅沢をしている気分になれました。
ホテルからアドリア海の砂浜までは、直線距離でわずか30メートルほど。通りを一つ隔ててもうそこが砂浜で、その向こうには緑がかった海が広がっています。で、とても不思議に感じたことは、そこの砂浜では、若い女性たちばかりでなく、中年の女性たちまでトップレスで日光浴をしているのですが、砂浜からすぐの通りを歩いている人たちは、女性ばかりでなく、男性にいたるまで、誰一人水着で歩いていないんですね。リゾート着ではあるものの、みんなちゃんと服を着ている。砂浜とわずか数メートルしか離れていない通りとは、画然と世界が隔てられている。ホテルからわずか30メートルと思って海水パンツで外に出た私は、そのほんのわずかな距離を歩く間にも、何か自分一人が掟破りの宇宙人でもあるかのような錯覚に捉われたのを覚えています。
で、砂浜に出てみたら、あたりまえの話しかもしれませんが、日差しがとても強いのに気付きました。これではやけどをすると思い、通り一本を横断して、すぐそこの店でサンスクリーンを買うことにしました。棚を見れば、おそらくこれがそうだろうと思われるサンスクリーンのボトルが並んでいるのはすぐにわかりました。しかし、困ったのは、光を50%くらい遮断する強力なやつが欲しかったのですが、表示がイタリア語なので、いったい何パーセント遮断するやつなのかがわからないことでした。そこで、応対に出てきたおばさんに、英語で「How much percentage of sunshine will this cut?」とかなんとか聞いたのですが、おばさんは全然英語が理解できない様子。それでも身振りを交えてなんとか伝えようとしていると、突然おばさんがうなずき、わかったわ、それじゃこれ800円だけど720円でいいから、と10%の値引きをしてくれたんですね。(もちろん、おばさんは当時のイタリアの通貨であるリラの単位で言ったわけです。)
で、光を何パーセントカットするのかはわかりませんでしたが、とにかく10%の値引きには成功しました。砂浜に戻り、サンスクリーンを肌に塗りつけながら、言葉が通じないといいこともあるんだなあと、しみじみと実感したものです。
アメリカの大学院で研究していた頃のお話です。アメリカの大学にはWriting Centerというのがあります。何をするところかというと、レポートや論文を書いた時に、そこに持って行って、論理構成や、外国からの留学生であれば言葉の誤りなどを正してもらう場所です。仕事をしているのは大学院レベルの学生で、ときに留学生の方がアメリカ人の学部の学生の文書構成の指導をしたりもします。
授業のレポートを提出する前は、必ずここに何度か通って自分の書いた文章を直してもらっていたのですが、あるときどうしても納得のいかないできごとが起こりました。
私は社会言語学の独立ゼミ(Independent Seminar)で、日本の女性語と社会の変化の関係を研究していたので、日本社会の大きな変化の象徴的な出来事の指標として、二人の女性のグループ「ピンク・レディ」の登場と彼女たちの歌の歌詞を取り上げることにしました。ピンク・レディというのはグループの名前なので英語でThe Pink Ladyと書いたところ、私のレポートの指導をしてくれているアメリカ人の女性が、The Pink Ladiesと複数形に直すんですね。で、
「これはグループ名で固有名詞だから、単数形のままでいいんです」
と私が言うと、相手は、
「だって二人の女性なんでしょ。それなら複数形でないとおかしい」
と言うので、
「でも、もともとのグループ名が単数なんだから、それを勝手に複数にすることはできない」
と反論しました。しかし、相手が、
「これは絶対に複数形でないとおかしい」
と言い続けるので、納得はできなかったものの結局こちらが折れて複数形に書き直しました。
その頃は英文の書き方にもずいぶん慣れてきて、何ページもあるレポートも数か所しか直されなくなってきていたのですが、こんな簡単なことで理解を超えていることがあるとは思ってもみませんでした。とても不思議な気持ちにさせられた経験でした。
さて、またまたしばらく間が空いてしまいましたが、第二回の講座です。前回は、カント先生の「コペルニクス的転回」のさわりの部分をお話ししましたね。今回は、その核心部分についてお話しします。
コペルニクス的転回とは、人間が物事を認識する仕方の発想の180度転換です。カント以前の哲学では、「もの」というのは、誰がどう見ても、100%確固とした揺るぎなく誰にとっても同じ「もの」が「ある」という考え方をしていたのですが、カント先生は、いやいや、そんな神様が保証するような確固とした「もの(Ding an sich=物自体)」なんてものはありゃしませんよ、我々が見ているのは物自体ではなくて、我々人間が持つ感覚器官の能力の範囲で見た「現象」に過ぎませんよ、っと言ったんですね。
どういうことかというと、カメラとその写真を考えてみてください。カメラが人間で、その写真が人間が見た「もの」の映像です。写真を見ると私たちはあたかもその物自体を見ているかのような錯覚を起こしますが、写真は写真に過ぎません。写真は、カメラが持っている能力に応じて、そのもののある一面を写しているに過ぎません。
人がものを見る(認識する)ときの仕方もこれとよく似ているんですね。私たちが何かを認識するとき、私たちはあたかもその物自体を100%正確に認識しているような気になってしまうものですが、それは私たちが人間として備えている認識器官の制限を受けた範囲でのそれに過ぎないわけです。ですから、私の目の前にあるPCは、私にとってはPCですが、猫のにゃん太郎ちゃんにとってはPCでもなんでもない、なんかへんてこなものに過ぎないということなんです。
何か認識の対象となる「もの」を、その「もの」のほうから考えるのではなく、それを捉える私たちに備わった感覚器官や認識のメカニズムから捉えるというのが、カント先生の「コペルニクス的転回」という考え方です。そして、この考え方は、哲学史上最大級の金字塔となる発見であったと言っていいでしょう。
アメリカの大学院で英語教授法の修士号を取るまでの約2年の間に、いろいろな経験をしたのですが、その中の一つが、アメリカ人は困っている人や謝っている人には優しいということがあります。
学期の終わりに自分が住んでいるアパートでパーティーを開いたんですが、夜遅くなったので、日本人の留学生仲間を家まで送るために、みんなを車に乗せて駐車スペースからバックをしたときのこと、後ろを確認しようとして振り返ると、後部席の留学生の一人と目が合って、相手が何か話しかけようとしているのかと思い、そのままの姿勢で車をバックさせたら、右手に停まっていた黒い大きなピックアップトラックの側面を、ガガガと擦ってしまいました。
ピックアップトラックは大きくて、黒い車体が右のウィンドウ全体を覆っていたので、一瞬目に入らなかったんですね。降りて見てみると、側面に大きな傷がついていました。
とりあえず友人たちをアパートまで送り、帰ってきてから、「ごめんなさい。この傷は私が作りました。××号室の○○ですので、ご連絡ください。保険には加入しています。」と書いた紙を貼っておきました。
翌日窓の外を覗くと、体格の良い髭のおじさんが車の傷を覗いている姿が見えたので、下に降りていき、謝って事情を説明しました。
するとおじさんは、「それならもういいよ。後はこちらであなたの保険会社と話をするから」と言ってくれました。ピカピカの新車だったので、少なくとも嫌味の一言くらい言われると思っていたので、相手の対応は意外なものでした。更に重ねて謝ると、「もうこれ以上謝る必要はない」とまで言ってくれたんですね。100キロは超えているだろう立派な体格に見合う、本当に寛大な対応でした。それでもこちらの気が済まないので、翌日ちょっといいウィスキーを一本届けておきました。
他にもこんな経験がありました。私の乗っていたシヴォレー・ルミナという800ドルの車は、もう20万キロ近く走っていてボロボロだったために、路上でときどきエンジンがスタートしなくなることがありました。そんなときボンネットを空けて途方に暮れていると、見ていた人たちが集まってきて、誰かが車を出してエンジンをスタートさせてくれるんですね。
アメリカ人に対して、ときどきそのいい加減さに腹を立てることもしばしばあったのですが、彼らは困っている人や謝っている人に対しては、とても寛大な人たちと言うのが私の印象です。
猫でもわかる哲学講座を書くと言っておきながら3ヶ月も書かずにしまいました。まあ、Sloppy Philosopher(ええ加減な哲学者)と呼ばれる健太郎先生ですから、猫ちゃんのようにのらりくらりといきたいと思います。
第一回は、カントの思想について、そのもっとも重要な部分について書いておこうと思います。ここがわからないと、カントの哲学の意義が見えてこないからです。
カントがなぜ偉大な哲学者と呼ばれるのか。それは、それまでの哲学とは完全に一線を画した思考の視点の一大転換を行ったからです。カント自身はそれを「コペルニクス的転回」と呼んで、自画自賛しています。
コペルニクス的転回って何?
皆さんもコペルニクスが何をした人かは知っていると思います。彼は、それまであらゆる天体が地球を中心にして地球の周りを回っていると考えられていたのを、いやいや違います、地球や他の惑星は、太陽を中心にしてその周りを回っているんです、という発見をした人ですね。天動説から地動説への視点の転換です。カントも、哲学上、これと似たような視点の転換を行いました。
カントの純粋理性批判という主著は、認識論です。認識論とは、人間がどのようにものごとを認識するのかというメカニズムの問題です。
カント以前の哲学では、「人間が目の前にある何かを正しく認識できる(=真理を把握できる)のは何故か?」を長い間考え続けてきました。そんなの誰だって認識できるだろって普通の人は思うかもしれませんが、哲学者にとってはこれが難問でした。というのは、人間の思考と、目の前にある物は、二つ全然関係のない別個のものですから、いったいどうやったら我々の思考と目の前のものが「一致できる」(=真理を把握できる)のかがわからなかったのです。これをカント以前の哲学者はぜんぜん解くことができませんでした。
あの有名なデカルト先生でさえ、「神が我々を創りたもうたのだから、我々の思考と物とがちゃんと一致できるように創られているはずだ」などとジョーカーを切るように神様を持ち出して誤魔化していました。それをカント先生が、ちゃんと論理的、科学的に説明しようとしたんですね。それが純粋理性批判という書物です。
で、ちょっと長くなったので、この続きは次回ということにします。
健太郎先生が留学先で何を勉強していたかって? その質問に答えましょう。
ドイツとオーストリアの大学では、哲学と文学を。アメリカの大学院では、英語教授法というのを研究していました。そこで今日は、ドイツの哲学者カントの思想について少し触れてみましょう。ねこでもわかる哲学講義です。
カントは1724年に生まれ、1804年に没しています。詩人で小説家で科学者で政治家でもあったゲーテや、楽聖のベートーヴェンなどと生きた時代が重なっています。
カントの哲学は、神様の力を利用しない、あるいは、神様を哲学的思考からは排除したということで、それ以前の神様を前提とした哲学とは一線を画す近代哲学の中心人物と言うことができるでしょう。近世の哲学の礎を築いたフランスのデカルトは、まだ神様を前提とした思想を唱えていました。もっとも、カントは神様の存在は信じていましたが。
カントの主要な著作は、純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判の三批判と言われる書物です。この中でも哲学史上、特に重要なのが、最初に書いた純粋理性批判。これはなかなか難解な書物ですが、次回はこれについてねこでもわかる解説を試みてみましょう。
これは1993年12月14日にドイツのフライブルク大学で撮った学生集会の写真です。当時のドイツの大学は授業料が無料で、留学生の私も無料でした。ところが、ドイツ政府が授業料の導入の議論を始めたことに対して、学生たちはストを打ち、この集会となったわけです。
ドイツの大学の卒業資格は日本の修士にあたるので、修業年限は6~8年くらいが普通でした。5年で卒業できるのはよほど優秀か勤勉な学生のみ。私が所属していた哲学部(日本で言うなら文理学部みたいなもの)の哲学科では、20年以上なんてツワモノも何人かいたほどです。修業年限が長い上に、授業料が無料だったので、学生たちの多くは親から経済的に独立して学生生活を送っているので、授業料が課されると死活問題になります。だから、学生たちの議論も真剣そのもの。社会の一般の人たちにもこのことをアピールする方法として、皆でスーパーに押しかけて、牛乳を1本買うことによって長あーい列を作ってみてはどうか、なんて提案もありました。
この年は授業料の導入はありませんでしたが、ずいぶん後になって授業料がいくつかの州で導入されたものの、また近年になって各州で廃止が進んでいます。日本とは逆の方向ですね。
今日はアメリカ留学時代の写真を一枚。これはペンシルヴァニア州立インディアナ大学のゲートの一つで撮ったものです。ゲートと言っても、周囲に塀があるわけではないので、ここを潜って通学する学生はほとんどなくて、バスや車で入ってくるか、歩きでもこの脇を通り抜けてやってきます。しかし、こうしたゲートを各所にもうけておくことが、やはり大学の象徴的な権威を表しているのではないでしょうか。
健太郎先生の場合は、初めの1年間は大学構内にあるMcCarthy Hall(マッカーシィー・ホール)という学生寮から徒歩で、次の1年間は大学から2マイル(約3.2キロメートル)ほど離れたWestgate Terraceという広々としたアパート群から車で通っていました。この車は、たった800ドルでフランス人の学生から買ったシボレーのルミナという日本だったらけっこう大型のセダンでした。エアコンは壊れているし、50マイル以上の速度を出すと、右だか左の前輪が、なんだかガタガタしているような感じでした。60マイル(96キロ)以上出すときは、命がけのような気がしましたね。
最初のMcCarthy Hallでの1年間は最悪でした。地上3階、地下1階のこの寮には100人くらいの学生が住んでいるのですが、日本人は健太郎先生一人だけ。アメリカ人の学生は夜中でも早朝でも、ドアを思い切りバタンバタン閉めるので、睡眠不足になるし、おまけに隣の部屋との仕切りは薄いボードなので、音が筒抜けになります。更に、アメリカ人の学生は、トイレでした後に流さない奴が多いんですね。なんでお前ら流さないんだと聞いたら、だって誰が触ったかわからないレバーを触るのは、不潔じゃないか、という言葉帰ってきて、呆れてしまいました。ははは。
7月18日 アメリカの大学院での一週間
「月月火水木金金」という言葉をご存じですか?かつての帝国海軍の歌の歌詞ではありませんが、アメリカでの留学生活は、まさにこの歌の通りでした。休みなんかないんですね。
授業は週3日、3コマしかありません。1コマが2時間半の授業です。だいたい夕方から夜にかけて行われます。アメリカでは日本とは違い、大学院の多くの学生が社会人なので、仕事が終わってから来れるようになっているんですね。
授業は3つしかないんですが、これが曲者なんですね。一つの授業に対して必要な準備がどれくらいかというと、最低で論文を2~3個(60~100ページ)読み、さらに授業で課された課題の準備、プラスアルファで本なども読んでおかなければなりませんから、この授業が3つとなると、けっこうな分量になります。文献を読むのは、ネイティヴの人たちならそれほどの分量とは思えませんが、我々日本人にはかなり大変な分量になります。
そこでどうなるか。毎日図書館に缶詰めになるわけです。朝昼晩の食事のとき以外はずっと図書館で文献を読み続けているといった具合です。図書館は夜中の2時まで開いていました。
ときどきどうしても頭が働かなくなってくると、図書館のソファなどで1時間くらい仮眠をとるのですが、疲れているときなどは、ほんの1時間のつもりで眠ったら、そのまま半日寝てしまったなんてこともありました。
とにかく学期中はこんな調子で土日も関係なく図書館に通っていました。ときどき「もう日本に帰りたいよー」なんて泣き出したい気分でしたね。まさに「月月火水木金金」を実践していたわけです。
6月20日 健太郎先生の悪夢
健太郎先生はときどき悪夢にうなされます。この年になっても留学中の夢にうなされるんですね。たぶん、日ごろ生徒たちに、「もっとしっかり勉強しろ!」なんて偉そうな口をきいているツケを払わされるんですね。その夢とは…
いくつかあるんですが、一番よく見るのは、アメリカの大学院が舞台の夢。もう、すべての単位を取得し終えて、後は卒業を待つばかりと、余裕でのんびりしていると、まだ一つ単位が取れていなかったことを思い出すんです。それで慌ててその授業の教室に駆けつけるんですが、レポート提出がその授業の課題になっている。周囲の友達にそのレポートで何を書けばいいかを聞き出すと、それまでの授業を聞いていないと書けない内容なんですね。
その瞬間の絶望感たらありません。額からあぶら汗だくだくです。「もうだめだ、俺は卒業できない!」とパニックになって目が覚める。
目が覚めると自分はベッドの上にいて、どうやらここはアメリカではなく日本らしい。ってことは、もしかしたら僕はもうちゃんと卒業していて、さっきのは単なる夢だったのかとわかって、ほんと心底ほっとするんです。
この夢を見ているときの恐ろしさと、夢から目覚めたときのほっとする開放感と、いったいどちらが上なのかは自分でも決めがたいところです。
6月1日 外国語がしゃべれるようになったきっかけ
ドイツ語がある程度しゃべれるようになったきっかけを今から思い返すと、よく書店の海外旅行コーナーにある「旅の6ヶ国語会話」みたいなやつのドイツ語会話を全部暗記したことだったと思います。
空港、タクシー、ホテル、レストラン、デパート、病院などで必要とされる、いわゆるシチュエーション会話を暗記してしまったんですね。そしたら、その暗記をした文体を基にして、いろいろ応用的な会話ができるようになっていきました。
よく、語学は暗記ではない、などというガセ情報が流れていますが、基本的に語学は暗記です。文法理論をどんなに学んだとしても、基本となる構文を覚えていなければ、応用はできません。そしてあるときそのことの確信を深めたのは、通訳を職業としている人が、「基本となる構文を100くらい覚えてしまえば、会話ができるようなる」と言っているのを聞いたときです。
こういう話を聞くと、皆さんも勇気付けられるでしょう?
5月16日 ドイツ語はできたの?
健太郎先生はドイツ文学専攻でしたから、多少のドイツ語会話はできました。しかし、当時の日本の大学教育は、文献を読むことが中心だったので、初めは日常会話もままなりませんでしたね。
スーパーで、これをください(Ich nehme das.=I will take this.)ってなんて言うのかとか、環境保護先進国のドイツでは、スーパーでビニール袋をくれないので、「ビニール袋」という単語をどう言ったらいいのかわからず、レジのところで、ジェスチャーを交えた大芝居を打ったりと、それはそれは大変な苦労の連続でした。日本では、ドイツ人が聞いたらびっくりするような哲学書や文学書を読んできたのに、そうした簡単な生活のための単語や表現は知らなかったわけです。
ちなみにドイツ語でスーパーのビニール袋は、Plastiktüte(プラスティークテューテ)と言います。当時の辞書にはこんな単語は載っていませんでした。そして、驚いたことには、この袋一枚に30円近くとられたんですね。それからは、エコバック(布製の袋)をいつも持ち歩いていました。
でも、そうやって一つ一つドイツ語を身に着けていくことが、ストレスであると同時に大きな楽しみでもありました。
4月3日 どうして留学したのか?
健太郎先生がドイツの大学に留学したのは34歳のときでした。先生の家はモーレツ貧乏だったので、学生時代に留学するなんて、夢のまた夢でした。ただ、大学の4年のときに、信州大学と北ドイツのオルデンブルク大学が、交換留学生制度を結ぶという話が持ち上がり、M教授から「君を推薦するつもりだ」との言葉をもらっていました。
ところが、世の中そう甘くはないんですね。その交換留学制度がM教授の思惑通りには進まずに頓挫してしまい、「ドイツの大学で勉強できる」と有頂天になっていた健太郎先生は、まるで天井落としにでもあったように大ショックを受けてしまいました。
変な形で夢が破れてしまったために、ドイツの大学で勉強をしたいという気持ちは、その後、屈折した形でくすぶり続けました。 どのように屈折していたかというと、留学する当てもないのに、いつか留学してやろうと貯金だけは続けていたんです。
そして転機が訪れたのは、社会人になってから10年後のこと。異例の若さで出世はしたものの、勤めていた会社の方針にどうしても自分を合わせることができなかった健太郎先生は、自分の夢を生きているうちに実現させるという決断をするんですね。まあ、34歳にもなって子どもみたいな決断ですが、それが自分の性格ですから、お付き合いする他はありませんでした。
で、会社の帰りに新宿の紀伊国屋書店に駆け込むと、これがあーら不思議、私を待っていたかのように留学生フェアというのをやっていて、留学のためのHow Toものが所狭しと並んでいて、その中に「成功するドイツ留学」という本を発見しました。中を覗いてみると、手っ取り早く留学するためのあれこれが書かれていて、こんな便利な本があったのかと、思わずその本に頬ずりしたいような衝動に駆られたものです。
その後は留学に向かって一直線に突っ走りました。
◇フライブルク大学へ留学
左の写真は、ドイツの南西部、シュヴァルツヴァルト(黒い森)地方のはずれにある、フライブルクの街の大聖堂広場です。
健太郎先生は、1992年の9月から94年の2月まで、フライブルク大学の哲学部で、哲学や文学の研究をしていました。
学生の頃からドイツの大学で勉強してみたいという気持ちを持っていたのですが、一旦社会人になった後で、勤めていた会社を辞めての留学でした。
日本の大学で卒業論文に書いたニーチェや、その発展上でのハイデガー、更にはドイツ人学生たちに引きずり込まれての「禅」の哲学的研究等、実りの多い留学生活でした。
で、初めからドイツ語をしゃべれたかって? そのことについてはボチボチお話していきましょう。